常々というか もう長年 子供の虐待問題と
同様 とても残念な事件. 結果に至るケースが
実際見てとれる我が国の介護問題
長らく現状放置は続き 中々 積極的に
国や地方自治体も 核心をつく対応は
なおざりにしてきた感がいなめない
勿論 それらに携わる医療.福祉従事者の待遇
向上は元より 従事者数や機関の拡充など
そちらも大切なことで 待ったなしなのは
言うまでもなく.
では あるのだが・・
日々 孤立を深める介護世帯の深刻さは
その悲惨な結末を報道等で見るにつけ
やるせなさが それら家庭の内情の問題点が
其々個別案件として 困難さを持って
我々第三者へ提示してくる
実際 かなりの数の世帯が それぞれ
介護家庭として暮らしているのあろうが
それは 悲しいかな 点在しており
連携や グループ化は 中々 実現しない
そんな 時間的、経済的、心身的
多くの面で 全くもって 余裕がないのが
現状である
それを 地方自治体なりが 形づくる事を
すれば 幾分かは 不安や悩み 相談事も
解消し ストレスも 少しは 無くなるかも
しれないのだが...
つい先般には
何十年 夫は40から 妻を介護し 挙げ句
歳を取り 自身が病気を持つ身となり
自己判断にて 施設へ妻は預けず.と決定し
車椅子まま 妻を海へ 投げ落とすという
恐ろしい結果を招いていた
もし これが 己れに起きた事なら 皆
どうするであろう
仕事を辞め 確か 脳溢血か何かで
体の不自由になった 妻を 30年ほど
手となり足となり 身を粉にして
尽くしてきた 夫
「最近 俺 頭がおかしいんだ」と周囲に
漏らしていたという
自分なら そもそも 仕事を辞め 家族を
そこまで看るかは分からないが おそらく
なんらかの機関へと相談し 様々可能な限り
他所の手を借りて 対処するだろう
冷たいようだが 自分1人で
やれる自信が無い
おそらく 30年前は 介護保険制度も
始まる直前で デイサービスなど第三者の
介添えも 常識的ではなかった時代であり
今とは違い 身内が看るのが普通であり
それ以上の必要な病状ならば
入院や施設での治療や経過観察もあっただろう
おそらく 急性期を過ぎ 自宅療養が
可能となり すぐ近い夫が 担い手として
手を挙げたのであろう
よく言う 育児と異なり 介護や看護は
先がよく見定められない いつ迄続くのか
ほか 合併症や 他の症状や病気も併発したり
長患いにて 心身の不調もあろう
それは もはや 家族だから.と 1人の人間が
しかも 医療面の素人であり 当時の男性なら
推測だが 家事全般も 全く慣れないことで
あったろう
家庭内に病気療養者がいるのは 短期間でも
気が抜けず
平時 1日のうちにも 食事に排泄介助
ほか 呼吸に難があるケースや 上記の家庭は
車椅子なら 身体介助 床擦れ.じゅくそうケア
も基本となり ほか 部外者では知れない
数限りないサポートをし 突発的な
体調不良等による 病院受診や
必要な買い物や 歯などの通院付き添いや
ありとあらゆる 健常者には無い 種々雑務
に 365日 休みなど無く 刻一刻追われ
その罹患者の病状具合に 一喜一憂する
そして家族や本人も含めた 頑張りは
そのまま 状態に反映されないことも
しばしばである
聞けば 子どもさんも おられたとの事
いくら 親族に多少頼むにせよ 父親が
母親の代わりも背負うなら 想像を絶する
状況である
まだ 書き記せない程だが
過去には 現在よりも 介護の各システムなど
上手く機能せず 存在すらしていない内容も
多かったなら なおさら 当事者は
筆舌にしがたい困難さであったろう
介護問題を記すには 字数が足りない程
なので 今回は割愛するが
この男性の心身の苦労や苦悩 また
介助される女性側の苦しみも 忘れてはならず
双方 助け合い 思い合って 暮らされて
いたのだろう
それを思うと なんとも辛い日々と 結末で
あるのだが...
よく聞く この件も他も 報道では
「辛かったら 言ってくれたら良かったのに」
というようなコメント
言わずもがな
辛い?のは 介護家庭は どこも しんどい
当たり前の話しなのだ それは 大前提の
事であり その詳細は 枝葉が分かれ
各家族によって 千差万別
簡単な話しではないのだ
毎日毎日 その辛さを 吐き出せる相談出来る
機会. 場所は ほぼ無い
なので 現状 全く足りていないという前提で
福祉の公的機関なり 基より国は
動いてもらわないと このような事案は
無くなるどころか 各地で発生し
増えていくであろう
こうしている時も 人知れず 介護者は
疲弊し 心身に変調をきたし 助けを
求められずにいる
と言うか 国が義務として すべき
良好な救策は 残念ながら 今のところ
どこにも 見受けられない
国は 医療機関の負担軽減 元より
その類いの歳費捻出の削減などの観点から
動いているだけ. と窺える
結局 病気や障がい 心身不自由時の
安定的なサポートなど 存在しないのだ
万一 たまたま 病気や事故 その他
思いがけなく 社会から離れ 家庭で
療養や生活することとなった人々を
救う道は 未だに 無いのである
勿論 一部の 介助補填目的としての
デイサービスやデイケアは あるが
介護世帯全てが ある程度 相対的に
安心出来る 金銭面や 人手
それぞれの心身ケアまで 総合的に
解決できる 基幹やマンパワーが
望まれのだが..
介護の諸々については 結局
なった側の責任 家族で担うのが当然の
社会と ならしめているのだ
医療が進み 生存率が上がり 生き続ける
ことは可能となったが
例えば 脳出血で一命を取り留めても
早々 安定したら 病院から放り出され
あとは 自分達で対処しろ である
議員達は 元々経済的に恵まれ どうとでも
なるのだが 一般家庭は そうはいかない
中々 国会でも 真の国民の苦悩は 届かず
放置されているのだ
本来は この高齢化社会
以前より 予測も出来ていただろう
前もって 充分な
自宅療養 ほか 高額でなく
きつい縛りもない受け皿の
施設や機関を 増設すべきであった
家族は 自分の心身の健康をまず第一に
可能な範囲で 見舞ったり 面会したり
それが 何ら抵抗なく 実現できるのが
好ましいのではないか
自宅に近い リラックス出来る施設など
預ける側も 療養する側も どちらも
安心出来る環境を整えて
やはり 夫婦なり 親子なり 兄弟なり
離れて暮らすのは 辛かろうが
長い目で見て お互い それが 良策なのだ
家族は 自分を追い詰めては いけない
自分が もし 世話される側なら
近親者を長年苦しめることは 果たして
本願であろうか?
私も 過去 悩んだことがある
しかも やる側は どんな程度でも
100%満足のいく世話など あり得ない
どんなに尽くした人も
違った視点で言えば
例えば
子供が 保育園や学校に上がる
それは 人生の修行
成人時も 社会に出て どこかで働いたり
自営にしても 何らかの報酬を得る為
労働する
それと同様に
年を取り(高齢者ばかりの事ではないが)
自分の病いや 足腰の不自由さの中で
人は又 苦しいけれど
身を置くことになるのだ
人は 死ぬまで修練が 嫌でも必要なのだろう
だから 家族は そんなに自分を 責めたり
義務感に苛まれる必要はない
自分が無理しない程度に やれば良い
まず 自分の立ち位置を崩してはいけない
優先順位は 身内に病人がいようと
1番は自分なのだ
病床の家族は 辛いが ちゃんと それ
それ様の 環境に 身を置いて貰うことが
何よりである
でないと 過去には
看護師で忙しい娘が 疲労し
気持ちに余裕がなくなり
世話一切するのが嫌になって
ベッドで餓死した母親や
昨年辺りも ゲームばかりしている息子に
放置され 糞尿だらけの布団の中
凍死した女性もいる
これは 本当に最悪の状況ではある訳だが
ある日 突然 親や兄弟が病気になり
寝たきりになる 身近な世界なのかも
しれないのだから
周りは分からないだろうが
実際 その介護当事者達は 日々
仕事しながら 世話に追われ
常軌を逸することも 憂慮されて然りである
このように 一人孤独に重責を背負わざる
えなくなる 流れのままに...
まさに 人ごとでは ない
いつ そうなるか分からない 切実な
問題である
そうして 改めて 俯瞰すると
このような 必要な家庭に 補助は
皆無に近く
数年前の
一例を挙げれば
困窮者には 全く 無関係な
関東圏において 大イベントを繰り広げ
債務や維持費のツケを平然と 後年へ回し
又 次回
関西でのイベント開催権を
誇らしげに 掲げ
市民の 生活苦とは かけ離れた
今の時代 全く無駄な 催しが
繰り広げられるらしい
その 国民と 施政者の 温度差に
寒気を覚えるのである
最後に あの旦那さんを労ってあげたいと思う
普通の人では 決して成し得ないことであった
最早 精も根も尽き果て 尋常でなかった筈だ
介護者も含めた見守り寄り添いのサポートが
我々の身近な地域に普通に機能し 頼れる
拠り所が存在していれば...
頑張られたご夫婦にこのような不幸は
起こらなかったかもしれない
社会で最も大切な部分が抜け落ちた世の中に
思えてならない